日本人はやはり他人の目を気にする

一ノ瀬俊也『明治・大正・昭和軍隊マニュアル』読んで

この本によると、「軍隊教育=「国民道徳の大学校」というイメージは、もろもろの欠陥を押し隠すだけの強力な説得力をもって成立していったのである」とある。
軍隊とは国民に道徳を教える学校だという。そして、「個人としての功名、名誉のためにも戦うのであり、それはむしろ国家の運命に優先してさえいることがうかがえる」個人を国家に優先して、個人の名誉のために、日清、日露戦争を戦った。どうも他人の目を気にしている日本人という感じがする。あいつは、ああやって勇ましく死んだぞと、後世に伝えてもらいたい。個人の死などそれに比べれば何でもないということか。
 
 そして、「戦闘中命令を受けずして負傷者を介護若しくは運搬するが如きは卑怯の行為」と戒められる。
戦争へ行ったことのない私には、「もし、自分の隣の人が弾丸を撃たれて、倒れたら、救助せず戦闘を継続することは相当、後で、良心の呵責になやまされるだろうな。」と思う。その場は戦争で考える暇がないが、日本へ戻り、寝ている時に悪夢のうなされるのではないか。

 日露戦争の時、「捕虜となることは「武士道」に照らして恥辱であるとはっきり言っているのである。確かに同書では、敵軍の捕虜には「相当の取扱」をせよとは教えている。だが、自らが捕虜となることは「大卑怯」と否定し去るのである」とある。
 第二次世界大戦でも日本はこの考えが基礎に会ったようだ。あくまで一人でも相手を殺してでも、戦死せよ、ということだろう。死ぬことの方が生きることより大事な武士道。そうなったら、やはり、いかに美しく死ぬかを考える。潔い死に方を考える。神風が現われたのも何となくわかる。